山本正之のズンバラ随筆 第9話 LEX街の老婆
1丁目から3丁目までは、よくわからない。4丁目はワシントン広場だ。14丁目は
ユニオンスクエア。29丁目にはベンコイルの家が有り、33丁目には6番の地下鉄駅。
34丁目がエムパイア。35丁目から42丁目までは、よく歩く。 んんんんん、
どうもこの丁目っつうのがやだな。本来のSTREETにしよう。42nd,st.から
48thまでは、庭だ。クライスラーの真下を抜け、石鹸屋、ギフト屋、ビタミン屋、
眼鏡屋、マック、雑貨屋、デリ、エッチなドレス屋、ウエンディーズ、またデリ、
ケバいロジャースミスホテル、マツモトキヨシみたいなドラッグストア、
そしてラディソンホテル。
ここは、去年まで、レキシントンホテルと名乗っていた。
時は流れる。1984年、山本優と同宿した由緒あるレキシントンホテルは、もう無い。
1番街のダイナー・ビークマンも無い。2番街のパパラッチ、モーニングスターも無い。
時は容赦なく流れる。
この48st.レキシントンアヴェニューの、旧レキシントンホテルの西玄関の前、
ここに、一人の老婆がいる。時は流れない。
ボクがLEXに棲み着いたのは1989年6月。老婆はこの頃からいた。夏も冬も。
初めは、きちがいのホームレスだと思った。ある時は立ち尽くしある時は消火栓に座り、
何か不明な細かい動作をしている。右手で鳥が餌をついばむようにしたり、ひとさし指を
くるくる回したり、うなづき続けたり。最多なパターンは、手話の「ありがとう」のごと
く、左手の掌の上に右手を垂直に置き、おすもうの手刀のように、8分の8拍子で、
メトロノーム120の速さで、右手をトントントントンと左手との空気の間を叩く。
ボクの興味がそそられて仕方がない。なんなんだ?なにしてるんだ?
コスモポリタンアパートのドアマンに聞いても、訳がわからない。クレイジーだって。
このホームレスのババア、なんなんだよって、通り過ぎていた。
ところが、去年、意外な場面に出くわした。
毛皮のコートを着た貴婦人がこの老婆に10ドル札を差し出すと、老婆が声を出した。
「 I Have Mony.A lot.」
えええええ!?! 乞食じゃあないのお? あ、そういえば、足下に、帽子も紙コップも
犬も置いてない。 「 私、お金はあるのよ 」
その声は、低く澄んでいて、威厳さえもあった。この時、ボクは少しの畏怖を感じた。
2000年、今年。老婆はいた。同じ場所に、同じ上着で。
しかし、またも意外な仰天。LEXに着いて3日目、老婆が初めて、新しいコートを着て
いる。しかも、私のビリジアン色の。それどころか、ケーキを食べている。スーパー・ア
ソシエイティッドのストロベリージャムケーキだ。ボクの大好物だ。
そして、何かを唄っているぞ! そのメロディーが「LEXINGTON」に聞こえた。
ボクはやっと気がついた。
「ああ、この人は、ここに、この場所に、物凄い記憶があったのだ」
遙か昔、このホテルで至愛な時間を過ごしたのか、このアヴェニューを大切な誰かと歩い
たのか、それともこの路で悲しい事故を見たのか、
もしかして、この人自身がここで消えているのか、
「ああ、この人は、ここに、この場所に、得体の知れない執着があったのだ」
ボクはこの人の、恋人だったのかもしれない。この人を強く抱きしめる青眼白膚の
逞しい男性だったのかもしれない。それとも、この人に抱かれた、駿動の少年だったのかもしれない。
きっと、
ボクが気づくことを、この人は、ずっと待っていたのだ。ここで。
愛する人と離れれば離れるほど、愛する人は、傍にいる。
日本へ帰る前夜、ニューヨーク時間11月7日の午後11時、
ここで、この老婆に、ボクは微笑んだ。通り過ぎるほんのわずかの時間。
「おばあちゃん」って小さく、絶対に聞こえない程に小さく、「おばあちゃん」って。
彼女は見ていた。ボクを見ていた。
いつも、誰とも、関わりのないその眼差しが、
確かに、ボクを見ていた。ボクのうしろから、ささやく声が聞こえた。低く澄んだ威厳の声だった。
「MASAくん、わかった?」