こんにちわ。山本正之です。ボクは、昨日(日本時間11月26日)

NEWYORK から帰ってきました。

 

突然ですが、悲しいお知らせをしなければなりません。

11月2日夜、母が、亡くなりました。

みなさまに「BABAR」として慕われ、愛され、親しまれた 山本ふき が

亡くなりました。

今、ボクは、悲しみと、淋しさの、真底にいます。一歩、歩く度に母の笑顔を

想い出し、一息、吸う度に母の声を想い出します。

こうして文字を打ちながらも、泣いています。涙が止まりません。

 

 

NEWYORK 時間の 11月3日午後11時、

RIVER SIDE DRIVE に投宿していたボクの部屋の電話が鳴り、

家内の声がしました。

「今、お姉さんから電話があって、‥‥、安城のお母さんが、‥‥、

 亡くなったって‥‥、‥‥」

約束してたんです。あと十年は生きるって。あと十年はがんばるって。あと十

年は、楽しむって。

でも、逝っちゃいました。

虚血性心疾患、だったそうです。あの寒い夜、お風呂の中で、クラっとして、

そのままだったそうです。

11月4日の朝、アパートの前にハイヤーが来て、JFKに向かいました。

ANA090のシートでこらえきれなくなり、アテンダントに事情を話して、

泣ける場所を都合していただき、そこで、ひとりで、泣きました。日本に着く

まで、ずうっと泣きました。

成田から東京駅へのエキスプレス、新幹線こだま号、三河安城から安城までの

東海道本線、安城駅から家までの、安城本通り、家の玄関、もう、生きている

母のいない、家の中、そして、棺の前、まで、ずうーっと、泣いていました。

母の大好物の、ニューヨークの空港のチョコレートと、東京駅の東京ばなな、

を、棺にいれました。綺麗な、お顔でした。長湯を心配しましたが、ふやけて

いませんでした。家内や姉にお化粧してもらって、ボクの幼稚園の時の、家族

懇談会のようでした。

6日夜、通夜。親友のけんちゃんと、とくちゃんが手伝いに来てくれて、そし

て、幼なじみの弁護士のあきちゃんと、詩友、伊原通雄がお悔みに来てくれま

した。まだ、母の姿は、冷たいけれども、そこにありました。

7日朝、葬儀。火葬。収骨。

この間始終、安城山崎村、山本・本家一族が、慰めてくれました。それは、

驚く程の明るい慰めでした。もともと明るい山本家、通夜の深夜も葬儀の休憩

時間も、ジョークまたジョーク。でも、繊細な神経には絶対に差し障らない、

巧妙なジョーク。おかげでボクは、喪主の務めを、つつがなく終える事ができ

ました。

最後、炉に向かう母の姿に、ボクは、いつも別れ際していたのとおんなじの、

投げキッス、をしました。「BABAR!BYBY!」

さよなら!、お母さん!。

棺の中から、母が云ってくれました。「まーくん、愛してるよ!」

 

翌8日、葬儀後の整理。葬儀社への支払い、僧侶への支払い、料理屋への支払

い、頂いた御香典の記録。

翌9日、御近所へのご挨拶。お礼。謝罪。この夜、生まれて初めて、安城市、

朝日町(旧本通り)の実家で、一人っきりになる。一人で酒をつぎ、母の遺影

と話をする。「お母さん、こんな、淋しいこと、十二年も、やらせちゃって、

ごめんね、」。

骨が云う。「まーくん、どっかへ行きな。すきなとこへ行きな。」

 

10日、安城を出る。こだま号、成田エキスプレス。成田空港直近のホテルに

行くも、室臭に悩まされキャンセル。中野の家に帰る。一夜を明かし、またも

成田空港に。

11日、NORTH WEST 18便 にて、再度NYへ向かう。

ボクの愛する人たちが、ボクを愛してくれる人たちが、NYにくるんじゃない

か!、来てくれるんじゃないか!、、戻ろう!、あそこへ帰ろう!、。

NEW YORK 時間の 11月11日午後4時、JFKに到着。

夜、DORIAN・BENCOILの家で食事。娘のVELAとLILYの顔

がまぶしい。、11月12日、ツアーを迎える準備、前調べ。この時気づく。

まだツアー1日めのレストランしか予約していなかった。もう、明日、みんな

が来る。せっかくの正装の支度も無駄になる。ごめんね!

13日午後早く、53丁目、シェラトンホテルにて、

「MASAと歩くニューヨークツアー・2002」のメンバーに逢う。

昨夜の内に全てを一時払拭し、元気な山本正之で、大丈夫な山本正之で、

共に歩いた。クライスラーを見た、女神を見た、橋を渡った。

 

17日早朝、リピーター組でボストンへ。そしてセイラムへ。

この旅は、ボクの人生の中で、二番目にドキドキハラハラの旅でした。

もちろん一番目は、1986年のボストン、セイラム。

右手に短剣を持ち、左手を太陽に翳す、あの、女神のフィギアヘッド!

18日、リピーター組とゆっくりハーレムを散策し、夜、イタリアンレストラ

ン、「ラ・ジオコンダ」でパスタとホワイトムースをいただき、別れる。

 

19日から24日まで、NYを歩き回る。コロンバス、アムステルダム、レキ

シントン、(あのトルコ人のバラマンさんのクラフト屋はもうない。)、イー

ストブロードウエイ、ウエストエンド、ブリーカー、(あの楽器屋の隣のケー

キのおいしい犬の鳴き声のうるさいカフェも、もうない。)、ファーストアベ

ニュー、サットンプレイス、ユナイテッドネイション、(あの、ボクがピアノ

を30分も弾き続けた、あの気の良いギリシャ人のボスの、チューダーグリル

も、もうない。)。

 

25日朝、ハイヤーが来る。右にマンハッタンの摩天楼を見て、あの日の、

あの、母の声が蘇る。

「あれが、クライスラー、あれが、エンパイヤ、‥‥」

 

ああ!、お母さん!、ボクは、何日、何年、何光年、泣けばよいのでしょう!

ああ、お母さん!、ボクは、もう、あなたを、抱きしめられない!

 

「憶えておきます。」

 

そう、おっしゃった、あなたの声、残されたあなたの記憶を頼りに、

これからのボクを、作りますね。

 

 

インターネットのみなさま、インターネットをしていないお友達にも、お伝え

ください。

2003年、4月、19日、土曜日、午後、2時、

安城市文化会館ホール、にて

山本正之・愛母追悼コンサート「BABAR・最後の伝言」

を催行します。3月初旬には、改めて全国にDMを発送いたします。

みんなで来てください。

いっしょに、

「BABAR」を、送りましょう。

 

突然の BAD NEWS ですみませんでした。 最後に、

平成14年11月7日、

安城市立葬斎場にておこなわれた、山本ふき葬儀での、喪主挨拶を、

ここに付して、みなさまの、御厚情に御礼申し上げます。

 

 

 

喪主

 

「本日は お忙しい中 私の母 山本ふきの 葬儀に 御参列いただき

 誠に ありがとうございます

 

 母は 私の 大きな 希望でした

 母は 私の 美しい 女神でした

 

 その 大きく 美しい 光りが 突然 消えました

 悲しくて 淋しくて しかたがありません

 

 私自信 この先の 人生を どう続けてゆくか

              どう織りなしてゆくか

 暗い 深遠の真淵に 立たされている 思いでございます

 

 しかし  これは おそらく 母の意志であり

 また 父 利信の 意志であり 

 祖父 競(キソウ) の意志であり 

 果ては 祖先永劫の 意志であり

 やがては 遙かな 大宇宙の 意志であります

 

 その意志の前にあって 人間ごときの あらがいが 

 叶うはずもありません 

 

 かくなる上は 慈愛の道標を まっとうした母に

 あらためて エールを 送ります 

 

 「お母さん 十二年の間 ひとりで よう がんばったね 

  ごめんね 

  やっと お父さんのとこへ 戻れるね 

  よかったね 

  いつも いつも その やさしい 笑顔を 

  ボクたちにくれて 

  ありがとね

  ずっとずっと 心の中に ボクたちの 胸の中に

  ふきちゃんの花が 咲いとるでね 

  ありがとね

  じゃあね ばいばい さいならね 」

 

 

 御参儀の皆々様には 永きに渡り 母をいつくしんでいただき

                 共に 営んでいただき

 感謝の限りを 尽くせません

 ただ ただ 御礼申し上げるのみの 稚拙を

 どうぞ お許し下さい

 

 本日は 本当に 

 ありがとうございました」

                           儀、終至

 

 

嗚呼、

ボクの、ファンの、みなさま、

 

今、ここに、母の花が、咲きました。

 

                           まさゆき。